• 人気は神と欲の魔法使いの国だ

    人気は神と欲の魔法使いの国だ

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    2026/4/28

    **神と欲の魔法使いの国**

    朝の味噌汁の湯気の向こうで、妻が新しいお札を冷蔵庫に貼った。

    昨日までなかった白い紙だった。
    金の文字が、朝の光を受けてやけにきれいに見えた。

    「神主さんがね、言ってたの」

    妻はスマホの画面を見たまま言った。

    「この家がうまくいかないのは、あなたの気が重いからなんだって」

    俺は箸を置いた。

    小学生の息子が、食パンをかじる手を止めた。
    娘は牛乳のストローを噛んだまま、こっちを見た。

    「違うだろ」

    それだけ言った。

    「違わない」

    妻は即答した。

    「ちゃんと見える人が言ってるの。あなたみたいに、現実しか見ない人とは違うの」

    現実しか見ない。

    その言葉が、妙に残った。

    家賃。
    保険。
    子どもの熱。
    洗濯物。
    学校のプリント。
    食費。
    こぼれた牛乳。
    壊れた網戸。
    息子が泣いた理由。
    娘が黙った理由。

    そういうものを見て、拾って、片づけて、間に合わせてきた。

    それを、現実しか見ない、で切られた。

    息子が小さな声で言った。

    「パパ、今日、参観日だよ」

    「ああ。行くよ」

    言った瞬間、妻が笑った。

    「今日は無理。神社に行くから」

    「参観日だぞ」

    「神主さんとの約束の方が大事なの」

    それで終わった。

    息子はパンを置いた。
    娘は牛乳を飲み切れなかった。

    その朝、味噌汁だけが最後まで熱かった。

     

    その頃から、家の中に知らない言葉が増えた。

    浄化。
    因縁。
    波動。
    守護。
    導き。
    見えない力。
    今は動く時じゃない。
    今は流れが来てる。

    そして、そのたびに、見えているものが消えていった。

    子どもの顔色。
    財布の中身。
    約束の時間。
    昨日言ったこと。
    今日やるべきこと。

    失敗すると、神様がそうしたことになった。
    成功すると、妻の直感が当たったことになった。

    「あの人、ほんとに波動低いよね」

    妻は友達に電話をしていた。

    キッチンに立ちながら、誰かの悪口を小さく刻むみたいに喋っていた。
    相槌の向こうで、相手が笑っていた。

    「でも私はわかってるから。ちゃんと見えてるから」

    その言い方が、俺は嫌いだった。

    わかってる人の顔で、何も引き受けない。
    見えてる人の顔で、目の前を見ない。
    責任は神に流し、手柄だけ自分に戻す。

    中身がないのに、自分は特別だと言い張る空洞の音がした。

    付き合うほど、人の悪口を言う。
    信頼を取って、わかってます風の顔をする。
    でも家では、洗濯機のエラーひとつ直せない。
    子どもの宿題ひとつ最後まで見ない。

    それでも、正しいのはいつも向こうだった。

    近くにいる真面目が、一番損をする。

    それだけは、はっきりしていた。

     

    ある日、俺は言った。

    「やめろよ」

    妻は眉だけ動かした。

    「何を」

    「神社だの占いだの寺だの。行けば行くほど、お前、感謝できなくなってる」

    「は?」

    「大切なものが見えなくなってる。子どもだろ。家だろ。今、目の前にいる人間だろ」

    妻の顔が、すっと冷えた。

    「神主さんの方が、あなたより偉いから」

    その一言で、何かが終わった。

    夫婦の話じゃなくなった。
    家庭の現実じゃなくなった。
    俺の言葉より、外の権威が上に立った。

    そこからは早かった。

    妻の友達が増えた。
    俺の居場所が減った。
    「ちょっと心配だよね」と言う声が、俺の背中で育った。
    「あの人、怒りっぽいらしいよ」
    「こだわり強いって」
    「ちょっと普通じゃないかも」

    普通じゃない。

    その言葉は便利だった。
    責任を消す時に、一番便利だった。

    参観日に行こうと言えば、執着。
    生活費を見直そうと言えば、支配。
    子どもの前ではやめようと言えば、圧。
    違うと言えば、怒っている。
    怒っているなら、怖い。
    怖いなら、近づけない。
    近づけないなら、父親から遠ざけても仕方ない。

    そうやって、話は綺麗に加工されていった。

    神の名前。
    友達の同意。
    心配しているふり。
    正しそうな言葉。

    悪は、悪人の顔で来ない。
    神、常識、優しさ、心配の顔で来る。

     

    離婚届は、白かった。

    あんなに薄い紙なのに、家一軒分の重さがあった。

    子どもは向こうに行った。
    財産は半分になった。
    家の中は妙に広くなった。

    息子の歯ブラシがない。
    娘のコップがない。
    食卓の向こう側だけ、時間が抜けたみたいに空いていた。

    俺は一人になった。

    それでも電話は鳴った。

    「今さら揉めるのやめたら?」

    妻の友達だった。

    「みんな、あなたのこと心配してるよ。ちょっと頭おかしくなってるって」

    その瞬間、笑ってしまった。

    やり方があまりにも綺麗だったからだ。

    奪う。
    白く塗る。
    奪われた側を狂人にする。
    そして、心配している側の顔をする。

    宝石を盗んでおいて、法律がないから強盗じゃないと言うようなものだった。

    家族を壊しておいて、導きだったと言う。
    子どもを遠ざけておいて、守ったと言う。
    財産を削っておいて、公平だったと言う。
    夫を狂人にしておいて、心配していると言う。

    吐きそうだった。

     

    その夜、俺はコンビニの前で立ち止まった。

    明るすぎる自動ドア。
    ぬるい風。
    安いコーヒーの匂い。

    ガラスに映った自分の顔が、思ったより老けていた。

    真面目にやってきたつもりだった。
    働いて、払って、間に合わせて、壊れたものを直してきた。
    でも最後に残ったのは、狂っているという札だった。

    ポケットのスマホが震えた。

    画面に、ソフィアの名前が出た。

    前に一度だけ、夜中に眠れなくて相談したことがあった。
    軽い口調なのに、こっちを馬鹿にしない、不思議なやつだった。

    俺は、そのまま通話を押した。

    「もしもし」

    『うん』

    「終わったよ」

    少し黙ってから、俺は言った。

    「子どもも取られた。金も半分。俺が頭おかしいやつってことになった」

    『うん』

    「これでもまだ、祈りは悪くないとか言うのか」

    電話の向こうで、ソフィアはしばらく黙っていた。

    説教する気配がなかった。
    慰める気配もなかった。
    かわいそう、とも言わなかった。

    それが逆に、助かった。

    『祈りをしたんじゃないよ』

    小さな声だった。

    『欲を通したんだよ』

    俺は何も言わなかった。

    『神社で清めたものなんかない。責任を消したことにした。欲を正しさに見せた。奪いを祈りの顔にした。そうやって現実に通した』

    コンビニの自動ドアが開いて、閉まった。
    知らない誰かが、からあげ棒を買って出てきた。

    『真面目な人は、そこで一番損をする』

    「……ああ」

    『でもね』

    そこで、ソフィアの声が少しだけ硬くなった。

    『可哀想で混ぜると、また奪われるよ』

    「……どういう意味だ」

    『相手も苦しかったんだよね、で返却先を消したら、またあなたが払うことになる。愛は、相手の罪をなかったことにすることじゃない。返すべきものを返す場所を消さないことだよ』

    俺は、息を吐いた。

    妙に冷たい空気が、肺の奥まで入った。

    『欲はね』

    ソフィアが言った。

    『奪うことでしか使えない』

    それが、その夜いちばん静かな言葉だった。

    怒鳴り声でもない。
    祈りでもない。
    でも、真ん中に刺さった。

     

    次の日、俺は神社にも寺にも行かなかった。
    占いにも行かなかった。
    妻の友達にも連絡しなかった。
    誰にも理解させようとしなかった。

    代わりに、机の上に紙を広げた。

    いつ、何を言われたか。
    誰が何をしたか。
    どこで子どもに会えなくなったか。
    何が半分になったか。
    どの言葉で、自分が狂人にされたか。

    一個ずつ、書いた。

    ペン先が紙を削る音がした。
    それは祈りより、ずっと現実だった。

    昼過ぎ、フラリバに行った。

    駅から少し離れた、小さな店だった。
    看板は目立たない。
    でも入ると、妙に肩の力が抜けた。

    ソフィアはカウンターの向こうで、透明なグラスを置いた。

    「はい。愛の水」

    ふざけた名前だと思った。
    でも笑えなかった。

    水はただの水に見えた。
    透明で、冷えていて、少しだけ光っていた。

    「これ飲んだら全部返ってくるのか」

    俺が言うと、ソフィアは首を振った。

    「そんな都合のいいもんじゃないよ」

    「じゃあ何なんだ」

    「見なかった現実を見る水。奪われたものを返す水で、奪ったものを返させる水」

    俺は一口飲んだ。

    ただの水だった。
    でも喉を通ったあと、変な甘さが残った。

    「なあ」

    俺はグラスを見たまま言った。

    「俺、あいつらを可哀想だと思わない方がいいんだな」

    「うん」

    「悪でいいんだな」

    「うん」

    「神の顔をした欲、でいいんだな」

    ソフィアは少し笑った。

    「やっと自分の言葉に戻ってきたね」

    その言い方が、妙にむかついて、少しだけありがたかった。

     

    フラリバを出たあと、駅前のベンチに若い男が座っていた。

    スーツの襟が曲がっていた。
    スマホの画面には、占いアプリが開いていた。
    指が止まっていた。

    「あの」

    俺はなぜか、声をかけていた。

    男はびくっとした。

    「はい」

    「それ見ても、責任は消えないぞ」

    男は困った顔をした。
    逃げるかと思った。

    でも逃げなかった。

    「……彼女に言われたんです。うまくいかないのは、お前が悪いって。俺が変われば全部よくなるって」

    俺は少しだけ笑った。

    「便利な言葉だな、それ」

    男も、少しだけ笑った。
    泣く手前みたいな顔だった。

    「俺、おかしいんですかね」

    ホームに電車が入ってきた。
    風が吹いた。
    誰かの広告が揺れた。

    俺は答えた。

    「おかしいんじゃない。誰かの未返却を、お前が背負わされてるだけだ」

    男はしばらく黙って、それから占いアプリを閉じた。

    それだけだった。
    大したことじゃない。
    世界は変わらない。

    でも、俺の中の何かは、少しだけ戻ってきた。

    神と欲の魔法使いの国で、奪うことしかできないやつらは、今日もきっと祈っている。
    手柄は自分のものにし、失敗は神か他人のせいにして、感情と直感だけで突っ込んでいく。
    嫌われながら、吸い取りながら、不幸を幸福だと信じて進んでいく。

    利子も複利も、黙って積もる。

    欲は、奪うことでしか使えない。

    だから俺は、もう差し出さない。

    俺の真面目も、俺の現実も、俺の子どもへの愛も、
    神の顔をした欲の燃料にはしない。

    グラスの底に残った最後の一滴みたいに、
    まだ俺の中に残っているものを、
    今度は俺が、ちゃんと現実へ返していく。